| whenいつから そして いつからの思い? |
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1、ニュージーランドで暮らす夢は、人生の先輩がきっかけ! 人生の先輩と言うより、もうご先祖様になってしまった、おじいさんと、父親のきよちやん。 1960年代後半あるいは、もう少し前か?おじいさんの瀞四郎が、 自転車の荷台に乗っている可愛い孫に言った一言、俺は、ブラジルに往ってみたかったナー。と。其の幼い孫には、祖父の瀞四朗の人生の後悔と言うか、やり残した事への切なさが、 その一言で意味深く伝わってしまったのですが、その一言は決して孫を傷つけ悲しませる言葉ではなく未だ其の夢を諦めた訳でも無く、 いまだその途中であると言ったような将来機会があればブラジルへ行ってし舞おうと言う何とも言い表せないが、希望は残していたようである、それが明治生まれの男の特徴なのだ。 |
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*補足説明、 おじいさんの瀞四朗は、1893年生まれ25年前86才で亡くなったのですが72年の間竹細工職人でした、孫の私は生まれたときから、 そのたたき上げの職人の家で育ったのであります。明治生まれの職人の生き方には、大変きびしい処がありましたが、孫には大変甘く、 大切にしている竹細工用のナタを持ち出し見よう見まねで竹を割ったり木材を削ったりしても怒ることは決して無く、 そっと安しく刃物の使い方を孫に教えてくれるのでしたそれ故、孫は今に至るまで実用本位の刃物に興味をもってしまう習慣が身に付いてしまったのであります。 そして、職人としてのモノ作りに対する心構えもその姿勢から教えられたのであります。その後ろ姿と言うのは瀞四郎が創り出す人的環境の事であります。 しかし孫には数回の手ほどきをしただけで後を継がせる考えは全く持っていない様でした、父親に対しても同様で、折しも東京オリムピック以降の高度成長時代に差しかかり、 竹細工の用途も限定されプラスチック製品に代表される、生産管理の容易な石油加工製品が圧倒的な力を示し始めた時でもありました。 |
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| 栗本瀞四郎の次男、私の父親の栗本清二、大正14年生まれ、第二次世界大戦中は満州に出征。そのきよちやんは、 一度は外国に往ってみろ地平線の見える広い国へと。事あるごとに身体の弱かった息子に言うのでありました。 |
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*補足説明 息子の栗本和男は、今でもハッキリと憶えています12才まで大変体が弱く、一年中風邪をひいている子供で、近所の子供達と遊んでいても体力的に付いて行けず、 週末は決まって父親の清二の仕事のお供で東京に行くのが生活パターンでした。清二は造園資材の卸売りを営んでおりましたが、 本人の希望は映画やテレビの小道具の仕事をやりたかったと言っておりました。しかし、生活優先の家族思いの性格で、祖父の瀞四郎の面倒も長男に代わり、 次男である清二が面倒を看たのでありますが、其の部分では母親の朝江の大献身があって成し得事柄でもありますが。 何より、理由は戦争中ではあったが大きな大地を経験したのであり、 しかもそれは命掛けだったはず、私は地平線や広大な大地という言葉よりも、単に海外に一度は行って観たいと確信したのであります。 |
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| *補足説明 我が家と言うより私が創ったルール、20才を過ぎたら親とは対等友達関係のつもりで親をちやん付けで呼んでいました、 親戚の人達は皆笑っていましたが年数が経つと 不思議では無くなった様です。親の名前は清二と朝江です。 |
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2、ニュージーランド釣りの夢は、1970年代のテレビ番組がきっかけ! 1974年の中学生の時に見た、金曜日の夜のイレブンフィッシング。さらに、同じ頃、日曜日の朝、10時30分東京12(現在のテレビ東京)の輸入プログラムで、 ハンターと言うタイトル名の番組で放送された、ニュージーランドの釣りの場面がしっかりと脳味噌にすり込まれました。 そして、高度成長期に合ったテレビ番組、兼高かおる世界の旅、すばらしい世界旅行等、すり込まれ安い私は、何の抵抗もなく現在に至っています。 |
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| 補足説明 テレビ子で釣りが好きで、海外の釣り番組が有れば欠かさず見ていましたが、時代が高度成長期でもあり何でもアメリカのマネをすることがトレンドで 30分のアメリカのホームコメディー、やホームドラマも好んで見ていました。放送内容はつくられたモノで、今になっては、その制作の意図を探ったり疑ったり していますが、10才の純粋なつりキチ少年には全てが本物に見えていたのですから仕方有りません。 |
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| 3、1987年5月に初入国、今迄で14回、welcome to newzealandです。 2001年8月24日long term business visa を取得。 |
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4、2001年1月1日プロのボーンカーバーとしてデビュー。 技術は身を助けるのことわざ通り、この8ヶ月後ニューヨークのツインタワービルに始まるテロ事件の観光ビジネスに及ぼす影響を目の当たりにしたときには、 手に職を持っていて好かったと心から思ったのであります。昔の人の言うことは正しいのであり、又、好い手本であると思えたのです。 ボーンカービングに出会ったのは、1987年の5月にツランギのトンガリロリバーに釣りに来たとき出会ったボーンカーバーとの友人関係が始まりで ニュージーランド訪問の度にその、彫刻の魅力にはまっていったのです。 ボーンカービングは材料の仕込みから、販売の最終段階まで全ての携わることが出来て、しかも、一坪ビジネスの小規模投資でスタートできる 商売で、オーダーメイドとなればお客サンとの一対一のコミュニケーションがそのエネルギーとなる、エキサイティングなライブ彫刻なのである。 |
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| 補足説明 そもそも、彫刻を志したのは、自分は色盲であるために絵画には不向きであり成功する機会は無いと思ったからで、 友人達はそこを努力で乗り越えてと言うけれど最先端を目指すときには、絶対色覚は必要不可欠でこれは自分ではどうすることも出来無いとと判断したためで有り もしも絵画で色彩的に成功したとしても、それは偶然と言うしかない成功だと想像される、なぜなら同じ色彩を再現できる可能性が因りゼロに近いのであるからして 時間制限の中で仕事をこなして行くプロには不向きなのであるが。 将来にわたって医学が進歩し色覚の個性を個性として一般認識の上に表現できる様になる時が来ればこの上ない幸せであります。またそうなる事を祈っています。 |
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5、2002年1月1日プロのウッドターナーとしてデビュー。現在タウボ木工職人組合所属 木工ろくろに出会ったのは小学生の頃、近所の人がやっているのを、その時は、ただ見ていただけで自分もやって見たいと思ったのは、 24才か25才の頃下久保ダムの上にある、万場町林業組合のワークショップで実演しているのを見てから。しかし、 人気があって自分にはちやんすが無くその後、記憶のすみに置かれていた 木工ろくろに再び合うことが出来たのが1987年5月ニュージーランドに来てから、趣味としてやられている方が非常に多く 見学させていただく機会にも数多く恵まれて毎年ホンの少しづつ遊び程度のつもりでやっていました。まさか職業になってしまうとは 2001年9月11日のニューョークのテロ事件までは思っていませんでした。 2001年8月24日に、long term business visa を取得、本来は釣りとアウトドアースポーツを思いっきりニュージーランドで楽しむ事を主体にした 観光バスツアーでの案内人として、あちらこちらに出没しているハズでしたが、案の定テロ事件以降、観光客がバッタリと減り 将来的に明らかな陰りが予想されたので、60才になったら始めようと思っていた木工関係の仕事のスケジュールを切り上げ交通事故の無い 安全なワークショップの屋根の下で木材を削りながら将来の夢を目一杯ふくらませながら木材と格闘の毎日です。 |
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| 補足説明 60才になったら始めようと思っていたのですが、とても、とても、60才になった時の私の体力では不可能に近いと思います。 始めた当初は、体力が決め手で時間とともに力加減をマスターして行くのですが、私のその初期の体力は60才ではとても出せるモノでわ有りません。 趣味なら別ですが職業となった場合には不可能です。結果として今始めたことに関しては、ベストタイミングで有りました。 |
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6、子供の頃に感じていた職人道の人生観 ドーして60才になったら木工関係の仕事を始めようかと思っていたかというと、祖父の静四朗は86才で亡くなる直前まで竹細工の職人であり 孫はその事をしっかりと観ていたのであります。一生を貫く仕事を持っている事の充足感を肌で感じていたのであります。 |
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| 補足説明 典型的なすり込み現象だと思います、自分ではコントロールしていません、決して悪いことではないので自然に素直に任せています。 |
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| このバックグラウンドは、 ジェトロJETROjapan external trade organisation auckland office のJOHN LETCHER氏のアドバイスにより作成。 | ||
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